歌川広重『由井(薩多嶺)』木版画

歌川広重『由井(薩多嶺)』木版画 商品の詳細 作品名由井(薩多嶺)作家名歌川広重技法 木版画額寸44×37cm絵寸30×19cm 新品 額付 用紙:越前生漉奉書・手摺り 復刻版17・由井(薩多嶺) 蒲原をすぎると山は海に近くせまる。この海が清見潟である。古くは海の干潮の時に海岸ずたいに通った危険なところであったが、明暦元年九月に朝鮮から使節がきた時、山を切り開いて街道を通した。これが薩多峠であり、東海一の難所であった。しかし、ここの眺めは、「此所富士山鮮やかに見えて、東海道第一の風景なるべし」と名所記のもある通り、ひろびろと開けた駿河湾、沼津から続く曲汀の眼をみはらす景色であったろう。広重の絵でも、左での峠道の断崖の上からこわごわとこの絶景を眺めている旅人を描いている。 この絵は明るく晴々とした気分の絵として佳作である。構図もよく、近景の岩の上の二本の松がきいている。左に高く、右は海上の真帆がこれをうけ、中央に富士山となっている。また色彩も左手の断崖と近景の岩が濃く、大きく海の藍が開け、富士の白さが中心になっていて配色も爽やかである。画題は「薩多嶺」である。この絵は売れ行きがよかったらしく、異版が出来ていて、海上の船を欠いたり、岩の色を簡略したものもある。 ◆歌川 広重(Hiroshige Utagawa)◆1797 寛政九年、江戸・八代洲河岸火消屋敷の同心、安藤源衛右門の子として誕生。    幼名・徳太郎の後、重右衛門、又は、徳兵衛とも称す。1811 15歳の頃、歌川豊国の門に入ろうとしたが、門生満員で拒絶され、歌川豊廣に入門する。1812 歌川の姓をゆるされ広重の名をもらう。1830 「一幽斎廣重」と改め、花鳥を描いていたが、豊廣の死後、風景画を主に制作した。1832 「一立齋」と号を改める。    幕府の行列に加わり、上洛する機会を得て、翌年、『東海道五十三次絵』が誕生。大評判をよぶ。1834 「東海道五十三次」完成。大評判をよぶ。1838 「木曾街道六十九次」に参加、七十枚中四十六枚を描く。1841 甲州に旅する。「立斎」を用いる。1842 「甲陽猿橋の図」「行書東海道」「狂歌入東海道」など。1843 「東都名所」完成す。1849 「隷書東海道」1853 「不二三十六景」1856 「名所江戸百景」はじまる。1857 「六十余州名所図会」完成。「雪月花」「阿波鳴門之風景」1858 「名所江戸百景」完成。   安政5年9月6日、疫病(コレラ)により逝去、享年65歳。他の◆歌川広重◆作品を検索東海道五十三次 安藤広重 風景画 うたがわひろしげ

販売店:アート静美洞

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