CH MONTELENA CABERNET SAUVIGNON[2009]シャトー モンテリーナ カベルネ・ソーヴィニヨン[2009]

CH MONTELENA CABERNET SAUVIGNON[2009]シャトー モンテリーナ カベルネ・ソーヴィニヨン[2009] ボトルドリームカリフォルニア・ワインがフランスのワインを打ち破った1976年の《パリ・テイスティング事件》を基にした実録感動ドラマ1976年、カリフォルニア州ナパバレー。ワイン評論家スパリエは、良質のワインを求めてこの地を訪れた。そこで彼は、奔放な息子ボーに手を焼きながら、最高のシャルドネを造ろうと努力を重ねるジムと出会う。だが、いくらいいワインを造ってもアメリカ産というだけで相手にされず、ジムのワイナリーの経営は厳しかった。そんな中、スパリエはナパ・ワインの魅力を広めようと、ブラインド・テイスティングの米仏対決を企画する。ワイン史に残る大事件として今も伝説のように語られる有名な「パリ事件」。ここにご紹介する 『シャトー・モンテリーナ』 はその主役となった造り手の1つです。1976年の米仏ブラインド対決1976年5月24日。パリ。 その月曜日の昼下がり、インターコンチネンタル・ホテルのパティオで、ワインの歴史に残る試飲会が開催されました。 このイベントを仕掛けたのは、スティーヴン・スパリエという当時34歳のイギリス人。 スパリエは、マドレーヌ広場の近くでワインショップを経営しており、ショップの隣りにあるワインスクール『アカデミー・デュ・ヴァン』を主宰する実業家でした。 現在の「デキャンタ誌」顧問)は、教師として、またワイン普及者としてフランスワイン業界で彼の名を知らぬ者はいないほどの有名人でした。1970年当時のフランス国内でのカリフォルニアワインの評価はまだまだ低く、「カリフォルニアのワインはプロヴァンス(一部の生産者を除いては、大量生産のただ酔うための安ワインでした)のようだ」という見解が一般的でした。それでもまだ良いほうで、カリフォルニアワインはワインではないという声すらもあった時代です。しかしスパリエ氏は偏ったものの見方をしない人で、カリフォルニア中を歩き回っては様々なワインをテースティングし、カリフォルニアでもフランスに劣らぬワインが造られていることを知っていました。彼はこの現状をフランス人にも知ってもらおうと、カリフォルニア最高と思われたカベルネとシャルドネをパリに持ち帰り、有名なフランス人にフランスワインと比較テースティングさせることにしました。これが後に「パリ事件(パリ・テイスティング)」として知られる、ワイン史に残る大きな節目になろうとは、スパリエ氏自信も思っていなかったのではないでしょうか。スパリエ氏が選んだカリフォルニアは以下のワイン達。【●…赤 ○…白】●クロ・デュ・ヴァル 1972 ●ハイツ・マーサズ・ヴィンヤード 1970 ●マヤカマス 1971 ●リッジ・モンテベッロ 1971 ●フリーマーク・アビー 1969 ●スタッグス・リープ 1973○スプリング・マウンテン 1973 ○フリーマーク・アビー 1972 ○ヴィーダークレスト 1972○デヴィッド・ブルース 1973 ○シャローン 1973○シャトー・モンテリーナ 1973一方フランスからは次のワインが選ばれました。●シャトー・レオヴィル・ラス・カーズ 1971 ●シャトー・モンローズ 1970 ●シャトー・オー・ブリオン 1970 ●シャトー・ムートン・ロートシルト 1970○ムルソー・シャルム・ルーロ 1973 ○バタール・モンラッシェ・ラモネ 1973 ○ピュリニー・モンラッシェ・ルフレーヴ 1972 ○ボーヌ・クロ・デ・ムーシュ・ジョセフ・ドゥルーアン 1973またスパリエ氏は審査員に、次の9名を選びました。単にフランス人であるというだけでなく、フランスでもワイン界の重鎮。彼らの審査ならば間違いが無いという著名人ばかりです。・ピエール・ブレジョー (国家AOC委員会(INAO)の検査委員長)・ミシェル・ドヴァス (葡萄栽培学協会)・ピエール・タリ (グラン・クリュ・クラッセ委員会の事務局長でありジスクールのオーナー)・オーベール・ド・ヴィレーヌ (ロマネ・コンティのオーナーのひとり)・オデット・カーン (ワイン誌「ルヴュ・デュ・ヴァン・ド・フランス」編集者)・クロード・デュボア (グルメ雑誌「ル・ヌーヴォー・ギド」のディレクター)・レイモン・オリヴィエ (ミシュラン3ツ星「レ・グラン・ヴェフール」オーナー)・タイユヴァンのオーナー (ミシュラン3ツ星レストラン)・トゥール・ダルジャンのソムリエ (ミシュラン3ツ星レストラン)フランスで、フランス人が、ダイヤモンドと石ころほどの評価差のあるカリフォルニアワインとフランスワインを飲み比べる。誰が見てもこのテイスティングの結果は明らかだ。会場に集まった人々は皆そう思いました。「結果はアメリカ人には厳しい現実となるだろう、けれどもそれはアメリカワインの今後の糧になるのだ。」そんなことまで言われました。しかし、このイベントは、マスコミには全く相手にされませんでした。 スパリエらはマスコミ各社に取材の要請を持ちかけましたが、ことごとく断られてしまいました。 無名のカリフォルニア・ワインと伝統のあるフランス・ワインを比較するテイスティング・イベントなど、報道する価値がなかったのです。 結局、スパリエのワインスクール『アカデミー・デュ・ヴァン』の生徒だった、『タイム』誌パリ特派員のジョージ・テイパーだけが、面白半分で取材してくれることになりました。そして運命の日。審査員にはメモと鉛筆が渡され、1銘柄づつを1から20ポイントで採点しました。「カリフォルニアを見つけるのは簡単なこと。」「口に含んでみる必要もない。一度嗅げば十分さ。」「これはフランスワインの偉大さだ。ボルドーの一級に違いない」審査員からはそんな言葉が聞こえたそうです。ところがいざテイスティングが終了し、ラッピングが剥がされたとき、会場にいる誰もが信じられない光景を目にすることとなりした。審査員が赤ワインNo.1に選んだのは、2位のムートンと僅差ながら 『スタッグス・リープ・カベルネ』、そして白は圧倒的な差で 『シャトー・モンテリーナ』そう、赤・白ともにカリフォルニアワインが1位に選ばれたのです。その頃スタッグスのウォーレン・ウィニアスキーはワインの営業のため家を留守にしていて、夜に家に電話をした際に妻のバーバラからこのテイスティング大会の結果を聞きました。またモンテリーナのオーナー、ジム・バレットはフランスのシャトーを訪問中にこの知らせを耳にしました。しかしウォーレン・ウィニアスキーは「そう、それはよかった」と言っただけですぐに他のことを話し始めました。ジム・バレットは「なんでもないよ、たいしたことじゃない」と呟いただけでした。彼らは知っていたのです。自分達のワインの本当の美味しさを。彼らはわかっていたのです。一方審査会場は大変なことになっていました。その信じられない光景に唖然としていた中、我に返ったある審査員は、点数を書き換えようとしました。また他の審査員は点数メモを回収されることを拒否しようとしましたが、スパリエ氏がそれらを防ぎました。点数の詳細が発表されるとNO.1に選ばれたものがカリフォルニアワインだけだったことではなく赤は●1位:スタッグス・リープ 1973 ●2位:シャトー・ムートン・ロートシルト 1970 ●3位:シャトー・オー・ブリオン 1970 ●4位:シャトー・モンローズ 1970 ●5位:リッジ・モンテベロ 1971白は○1位:シャトー・モンテリーナ 1973 ○2位:ムルソー・シャルム・ルーロ 1973 ○3位:シャローン 1973 ○4位:スプリング・マウンテン 1973 ○5位:ボーヌ・クロ・デ・ムーシュ・ジョセフ・ドゥルーアン 1973と、上位5銘柄中3銘柄がカリフォルニアワインだという事実が明らかになりました。テイパーの記事が掲載された『タイム』誌が発売された当日、アメリカ中のワインショップでは、シャトー・モンテリーナのシャルドネとスタッグス・リープ・ワイン・セラーズのカベルネが売り切れました。 シャトー・モンテリーナとスタッグス・リープ・ワイン・セラーズの電話は鳴りっぱなしとなり、これらのワイナリーに続く道路はワインを求める顧客の車で大渋滞となりました。 アメリカのマスコミはこの「事件」をセンセーショナルに取り上げ、連日のように報道しました。一方、フランスのマスコミは、この出来事を完全に黙殺しました。 あの日、現場に『タイム』誌の記者がいなければ、この一件はなかったこととして闇に葬られていたにちがいありません。 このイベントから2年後の1978年、アメリカにワイン法が制定されました。『パリ・テイスティング事件』は、まさに、ワインの国際化を促進した出来事だったのです。 参考文献: 『パリスの審判』ジョージ・テイバー著、 日経BP 『カリフォルニアワイン物語 ナパ』ジェームズ・コナウェイ著、JTB 『最高のワインをめざして—ロバート・モンダヴィ自伝』ロバート モンダヴィ著、早川書房 ジェームズ・コナウェイ著「カリフォルニアワイン物語」より抜粋

販売店:札幌ワインショップ

¥7,140 送料別
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